去る一月一七日。私が学校評議員をしている芝川小学校三年生の児童約八十名が「地域探検」と題し、円蔵院に社会科見学にきました。コロナ禍以来、三年ぶりの見学でした。
当山本堂は修行や学びのための「道場」でもあるので、暖房設備はありません。大寒も間近の堂内は冷蔵庫のように寒冷…それでも児童たちは元気に挨拶してくれて、終始礼儀正しく、瞳を輝かせて熱心に、創建六百年におよぶ円蔵院や地元中川地域の歴史について住職の講話に聴きいっていました。
お話の最後に、児童たちはお寺で禅定(座禅)を体験しました。本堂正面の扉を全開にして、全員で合掌します。自然の静寂、野鳥たちの歌声、大銀杏の枝々が風にそよぐ微かな音に耳をじっと澄ませてゆきます。かなり寒かったので、合わせた掌と正座する膝の内側がしだいに温まり、熱をおびてくるのがわかりました。「これが、一人ひとりの命の火の温もり」。
こんどは全員で、クラスのちがうお隣の児童と手をつないでもらいました。そして境内にみちあふれる諸生命の音に耳を澄ましながら、隣の子の体温を感じてもらいました。「これが、みんなの命の火の温もり」。暖房の効いた室内では味わえぬ生命の尊い温もりです。ひとりの児童が「わたしたちも庭の鳥や木々もみんな同じ命の火をもってる」と発言してくれました。
私が敬愛する江戸後期の僧侶、良寛さんは「童の声は仏の声」と遺しています。子どもの無垢で虚飾のない言葉は、大人が忘れた真理と真心を言い当てます。また良寛さんは「童は小鬼のごとき悪戯好きだが悪事は働かぬ」とも書きます。子どもは時にいたずらをしますが、戦争や社会を揺るがす人災はおこしません。無垢清浄な子どもは大人の先生でもあるのです。
私も芝川小の児童から日々学んでいます。そんな子どもたちを大切に守り育てる中川と円蔵院でありたいと願います。